YAHOOニュースを開くと今日も不二家の問題がTOPに出ていて、なんでも「大腸菌検出の製品を出荷」ということなんだけども、もはや不二家の製造体勢に不備があるのは誰の目からみても明らかで、しかしこうして連日連夜新たなニュースが飛び出してくるという構図は、まあそう思っている人も多いと思うのだけど、「いじめ」と全く同じ構造である。とこういうことを書くと、「いじめとは違う。今後こういう事件を起こさないためにの消費者の立場から糾弾すべき。実際被害にあった消費者の気持ちを考えたことがあるのか」という意見が必ず出てきて、だからこそ僕が今言った意見は、テレビでは絶対に言えなくて、仮に僕がテレビ番組のコメンテーターでもやってたら確実にその番組は降板させられるわけで、こうしてネットの隅で細々と書くことくらいしかできないのであるが。
僕が言いたいのは、いじめられている不二家を援護したいとかではなくて、
どうして、「実際被害者にあった消費者の気持ちを考えたことがあるのか」という意見が出てくるのか、ということなのである。
「なぜいじめがなくならないのか?」
この問題は、いろいろな分野の識者たちがありとあらゆる角度から意見を述べているのだけど、いじめがなくならない、最も根源的な理由は、
「人はいじめをしたい」
である。
人間の平和の歴史は、汚いものを隠すということで発展しており、死体を隠し、ウンコや小便は地面の奥深くを流れるようにし、ありとあらゆる「汚いもの」を隠しているわけだけど、その中でも、徹底的に隠されてきたのが、「いじめの欲求」もっといえば
人を攻撃したい、という欲望である。
それは、ご飯を食べたい、セックスがしたい、と同じレベルで、人は、人を殴りたいし、罵倒したい、足を引っ張りたい、と思っているのである。
今の社会において、これらの欲望は徹底的に抑圧されている。今この文章を読んでいるあなたも、この欲望に関しては必ずなんらかの抑圧を受けているだろう。
セックスを禁止している宗教を持っている人たちを日本人のほとんどはある種バカにしているが、「暴力が禁じられている」という社会は、その宗教と全く同じである。
「人を攻撃したい」という欲望は、常に、満たされる機会をうかがっている。
もっと言えば、「大義名分」を待っているのだ。
人を攻撃しても良い、という大義名文。
たとえば、今、世の中にいる「上司」の「部下」に対するダメ出しの、多くは、この「攻撃したい欲望」
から発生していると思う。ただし、上司には「大義名文」がある。「会社のため」「利益のため」という大義が。
その大義を傘に、人を攻撃するのである。
不二家の事件も同様である。
実際に被害にあわれた方の気持ちを考えると本当に心が痛むし、不二家も徹底的に補償すべきであるが、
しかし、(お前、こんなことを言って、本当に被害者の気持ちがわかっているのか?)と言い出す第3者だったりもっと言えば、(私は被害者です。あなたには被害者の気持ちがわかっていない)という人が現れたとしても、そこには、「人を攻撃したい」という欲望が存在し、大義名文によってそれを満たそうとしている心の動きが存在する。
だからなんだ、ということなんだけど。
2007年01月27日 10:10