かなり昔から思っていたことで、
でも、こういうこと言うと必ず反論されるし、しかも僕としてもあまり知識のある分野の話ではないので
自分の無知をさらけだすことになるのかなぁとか
思っていて、言わないようにしていたことがあるのですが、
今日はなんとなく、言ってしまいたい気分なので、言ってしまうと
「小説」というジャンルはすでに死んでいるのではないか
ということです。
これは小説が売れなくなった、ということではないのです。
ジャンルとして、表現手段として、本質的に死んでいるのではないか、ということなのです。
仕事でダ・ヴィンチ・コードを観に行きました。
上映されたばかりの時期だったこともあって映画館はほぼ満席でした。
僕は、少し気になることがあって、観に来ているお客さんたちを観察したのですが
その大半が、僕より年下の若者だったのです。
これには驚きました。
たぶん、この映画を見に来た人の半数ちかくの人が、原作「ダ・ヴィンチ・コード」を読んでいると思われます。
原作を読んで面白いと思ったから映画を見に来る、もしくは原作を読んだ友人がいて、「面白かった」と聞いたから映画を見にきたのでしょう。
さて、
僕はといえば、この日記でも書いたように、原作「ダ・ヴィンチ・コード」をブックオフで入手していたわけですが、
僕の感想として原作「ダ・ヴィンチ・コード」が面白かったとか、つまらなかったとかの話ではなく
最後まで読めなかったのです。
上巻の、ヒロインの女とラングドンが美術館の中をウロウロしているあたりでどうしようもない睡魔に襲われて、その後ページを開く勇気が持てぬまま、映画を見ることになりました。
いや、ここで僕が申したいのは、それでもこの原作に対して「面白い」「つまらない」の価値判断は一切なく、話に引き込まれなかったから睡魔に襲われたという話でもなく、僕は
ルーブル美術館の内部を始めとした「詳しい風景描写、背景描写」を読み進めるだけの体力がなかった
という事実なのです。
さて、ここで体力がない、と申しましても、僕は本も出していますし、きっと人より活字に触れる機会は多いはずです。月に10冊以上は本を読んでいると思います。
つまり、僕は、たぶん、一般人よりも活字に対して免疫力があるにも関わらず、「ダ・ヴィンチ・コード」を読む事ができなかったのです。
では、映画を見にきていた若者たち(繰り返しますが、彼らの中で原作を読みきったという人は多いと思います)には活字に対する体力があったのでしょうか?
彼らの中にはそうした体力があったという人もいるでしょう。
小説が好きで小説をよく読む、という世の中的にはかなりマイノリティの人たちです。
しかし、ほとんどの人が、活字を読む体力は僕以下だったと思うのです。
そこで、僕は、映画館に座っている彼らを見ながら思ったのですが、
「そもそも彼らは描写を読んでいたのだろうか?」
ということです。
小説の世界に感情移入させ、陶酔させるための描写を、そもそも彼らは読んでいないのではないか?
「犯人は誰やねん」
というシンプルな考えで、どんどん読み飛ばしていた、もしくは読んでいてもそれほど集中せずに読んでいたのではないか、ということなのです。
それだけではありません。
いや、そうした読まれ方をしたのであれば、まだ小説は生きていると思うのです。
しかし、最も残念で、しかしその可能性が否定できないのは、
もしかしたら、この「ダ・ヴィンチ・コード」という小説は
ファッションとして消費されたのではないか
それは「流行」であり、それを読むことが「自己イメージを高める」もっと分かりやすく言えば、
「それを消費している自分はカッコイイと思える」
そうした陶酔として、消費されてしまっていたのではないか、ということなのです。
美術・芸術という題材は、そのような消費のされかたをする場合が多くあります。
そして、小説というジャンルが、人を感動させたり、楽しませたり、人生に影響を与えたり、という本質的な役割を担う力は既に失われており、
ファッションとして消費されている、ということなのです。
本を読む人は少ないです。
だから、
「本が好き」
という女性に会うと僕はうれしくなって、質問してしまいます。
「どんな本を読むの」
すると帰ってくる答えで、今まで一番多かったのは以下の3人でした。
・三島由紀夫
・太宰治
・村上春樹
僕はこの3人の作品を多少なりとも読んでいる方だと思いますが、
正直な話、何が面白いのかさっぱり分かりません。
いや、「さっぱり分からない」というのは語弊があります。
どう面白いのかを説明しろと言われれば多少は言うことができますし、彼らの才能の素晴らしさを言うこともできます。
ただ、彼らの文章が他の作家と比べて圧倒的に優れている、ということは客観的にはほとんどない、と僕は思います。
しかし、この上記の3人。
彼らには、他の作家にない、あるものを持っているのです。
それは、「ブランド」です。
彼らの生き方や、スタイルがそうさせたのか、もしかしたら、それは「ダザイ」という語感なのかもしれませんが、
彼らは「ブランド」力を持っています。
それは、エルメス、とか、グッチ、とかと全く同じチカラです。
身に付けて、自分の一部にしていたい、という魅力です。
だから、海外で、目の前に広がるエメラルドグリーンの海。パラソルの下で読むのは、村上春樹なのです。
そこに村上春樹が「合う」から、もっといえば、そのとき自分は村上春樹の小説を持っていれば様になるから、カッコイイから、村上春樹の小説に1600円という値段を払っているのであって、村上春樹の文章、エンターテイメント性、感動、人生に受ける影響、といった本質的な部分は、ごっそりと、欠落しているのです。
ようするに、酔っているのです。
村上春樹・太宰治・三島由紀夫を読む自分に。
そして、「ダ・ヴィンチ・コード」も、少なからず、そうした消費のされ方をしたのでした。
絵も書けない、映像を撮ることもできない、無能な自分はこの事態を、皮肉ではなく、心から残念に思っています。
2006年06月06日 06:25